訃報のお知らせ
前理事長 奥村晃久 儀 かねてより入院加療中でしたが、去る7月27日永眠いたしました。生前のご厚誼を深謝し謹んでお知らせ申し上げます。2020年7月30日
2018.7.21 学会功労賞受賞のお礼
理事長の奥村が「日本臨床細胞学会」九州連合会で、学会功労賞を受賞いたしました。
多くの方々の長年のご協力の賜物だと心から感謝しております。
県連「退職者の会」に投稿した奥村の文章を下記に転載いたします。
「私と読書」(No16)「日本臨床細胞学会・功労賞、オスラー教育論と村橋久成」
本年(2018:平成30年)6月初め、鹿大医学部人体がん病理学准教授の先生から、「日本臨床細胞学会創立50周年記念(九州連合会学会・長崎:7月21日)で、学会功労者表彰に推薦させて下さい」との連絡を受けました。現在の仕事は、その専門職から離れているので“何かの間違いでは?”と思いました。しかし、内科を兼任して携わった病理科と、それを支えてくれた職員・仲間たち、そして亡き家内の顔が走馬灯の如く思い出され、鹿児島、奄美や宮崎の関係の方々の誇りにもなると思い、お受けしました。6月中旬、学会事務局から私の名前のふりがな、ローマ字表記の問い合わせで、「てるひさ」などを確認しました。学会当日は、勤務の都合で表彰式に参加出来ませんでした。この日は、鹿児島市の「お祇園祭り」でしたが、受賞の感謝と協力してくれた方々へのお礼に「八坂神社」を参拝しました。その後(8月10日)、表彰状と記念品が届けられました。
私は、離島医療を守り地域医療を発展させるには、医師や看護師などが研修出来る病理科のある総合病院を市内に創設する必要があると主張してきました。そして、数人の候補が挙がりましたが、言い出しの私がその任を果たす結果になりました。
この機会に、赴任当時のスッタフから贈られた印象深い貴重な書籍を紹介し、私の仕事や学会発表の主なものを概説します。
卒業当時(1968:昭和43年)、私は脳外科志望でしたが、鹿大病院の内科で研修を始め、市内の診療所で外来診療のお手伝いをしていました。しかし、この診療所と瀬戸内町古仁屋の診療所の医師の辞任によって、その対策が緊急課題になりました。同級の先生は、外科なら協力しても良いとのことで、私は内科を選び奄美大島の瀬戸内町古仁屋の南大島診療所(九州では最初の医療生協)へ、小児科を選択した女医さんは、大阪府堺市の総合病院で研修することにしました。
この頃、東大(神経内科)の沖中重雄教授(1902-1992)が退官される時、診療した患者さんを病理解剖した結果、誤診率が約14%だったと公表して全国的に話題になり、主治医は自らの診療を検証し、反省する為に病理解剖をすることの大切さを認識させられました。死因解明のためには病理解剖(入院中死亡)、行政解剖(行き倒れなど、原因不明)、司法解剖(犯罪関連)、系統解剖(研究と医学教育)などがあります。病理解剖調査(2008~10年)で高率な国は、臨床医の質の向上と社会保障の充実の為に実施している北欧諸国は70%を越えています。その他、豪州(53.5%)、英国(46%)、独(19%)米国(13%)です。日本は、医療機器の発達の影響もあって全国的に減少傾向ですが、自治体に監察医制度のある東京、神奈川、大阪、兵庫は23%と高く、他の道府県は6%以下です。西日本に行くに従って低下し、鹿児島は2 %前後です。
「病理解剖は,医学の基礎である」(カール・アショッフ)は普遍的真実です。「医療関連死」を廻って、病理学会と法医学会の垣根が低くなり,犯罪捜査の警察でなく公的第三者機関の設置を求める運動も起こり,病理解剖に対する考えも,社会的役割として捉え直されています。
私は、奄美大島での8年近くの勤務を終え、堺市の耳原総合病院で内科を研修しつつ、阪大医学部第2病理学教室と大阪府立成人病センター(現・大阪国際がんセンター)の研究生になり病理学を学び始め、日頃疑問をもっていたことを調べました。
① 症状の無い胆石で,胆嚢がんが優位に多いことを統計的に証明(現在,症状が無くても胆石手術摘除の根拠になっている)。
② 若い女性が胃癌で亡くなる様子が小説に描かれていたので,腫瘍細胞(印鑑細胞癌)の中に女性ホルモン(エストゲン)の有無を検索しました。(染色技術が,まだ未開発だったので優位差を証明出来なかった。現在は、陽性であれば乳癌と同じ治療をしている)。
③ 患者さんの免疫状態把握の必要性(ツベルクリン反応の応用と白血球機能検査)と免疫力が低下した場合、免疫グロブリンや白血球コロニー刺激薬剤の点滴。
④ 副腎皮質ホルモン投薬と薬剤性膵臓炎の因果関係~112剖検症例の検討~(「日本消化器病学会」Vol.78 1981)など、現在に通じる事でした。
当時、病理医で細胞診への関心は薄く、資格持った方は殆ど居ませんでした。日本語の専門書も少なく、外国の書籍(Leopold G.Koss著)を見ながら学びました。また、”組織を見れば解るので、細胞診など必要無い!”と馬鹿にされる始末でした。
大阪での研修を終えて、鹿児島の民間病院では最初の常勤病理医として赴任し、内科外来や当直を兼任しながら病理科を開設しました。そして、細胞診指導医(総合)と国際細胞学会評議員(FIAC)の資格(九州で最初)を取得しました。病理診断は単なる検査でなく、全てのスタッフの努力(智恵と技術の結集)が総合されたもので、「科学的根拠に基づく医療(EBM)」を保証し,医療の質の向上のために必須のものです。
その頃、E氏は東京の臨床検査学校を卒業し国家資格を取得した直後でしたが、鹿児島へ帰るのを半年延期し「国立がんセンター」に通って細胞検査士の資格を取得してもらいました。また、大学卒業して間もないKさんには、大阪府立成人病センターの病理部に1ケ月派遣してもらい、その後鹿大第二病理学教室で研修しました。その頃、彼女のお父様からウイリアム・オスラー博士(19世紀カナダ生まれ、アメリカの医学教育者)の著書「平静の心」を戴きました。
これには、有名な言葉「医学は、科学に支えられたアートであり,病気を診ずして病人を診よ」と述べられていて、感銘深く「座右の銘」にしました。更に、「十五分間ベッドサイドで学ぶことは3時間の机上の勉強に勝る」、「何にでも興味を持つと、その人の人生は素晴らしいものに変化する」、「医学に携わる者は、毎晩寝る前30分間、教養書を読みなさい」なども印象に残っています。2011(平成23)年、故日野原重明先生が「NPO法人日本オスラー協会」を設立されて、医療関係者の教育活動に取り組まれています。
その後就職されたWさんは、薩英戦争の2年後(1865年)の薩摩藩英国留学生の1人で、サッポロビールを創設した加治木島津家の村橋直衛のひい孫(曽孫)さんでした。村橋直衛に関しては、「ふるさと歴史散歩」(葦書房・佐藤剛)、「薩摩的こぼれ話」(丸山学芸図書・五代夏夫)、「夢のサムライ」(文化ジャーナル鹿児島社,1998・西村英樹)など多くの著書がありますが、彼女から「残響」(北海道新聞社1983:絶版、サッポロ叢書:再出版1998・田中和夫)を戴いて、詳細に知ることが出来ました。
村橋直衛は、「戊辰戦争」で砲兵隊を率いて従軍し、明治新政府の北海道開拓使として勤め、黒田清隆長官に協力し、札幌に豊かに自生していたホップを原料に、ドイツ帰りの醸造技師・中川清兵衛の協力を得て苦心惨憺して日本初の「開拓使麦酒醸造所」を建設しました(1876:明治9年)。
彼は、村橋家が源氏由来で島津家直系なので、会計奉行直後から村橋久成と改名しました。しかし、黒田長官が「西南戦争」で政府軍として参戦し、泥酔して妻を斬殺したり、五代友厚(薩摩藩英国留学生、大阪商工会議所初代会長)と結託して汚職「北海道開拓使官有物払下げ事件」を起こしたので、偽善と虚飾の官界に対して怒り、戊辰戦争や西南戦争などで亡くなった多くの命は一体何だったのか?という思いと清廉潔白な人柄もあって、家族を捨て托鉢僧となり行脚放浪し行方不明になりました。
そして、11年後(1892:明治25年)、神戸の路上行き倒れで発見され、施療院に収容され死亡しました(享年50才、医師の診断は、肺結核と心臓弁膜症)。新聞で村橋の死を知った黒田清隆が葬儀を行い、薩摩藩の多くの方々によって追悼され、青山霊園のお墓に葬られました。
私は、大阪で研修中、病院の軟式野球部に所属し、投手と打撃はクリーンアップを任かせれられました。従って、内科学を学びつつ筋肉とメンタルのトレーニングなど「スポーツ科学」を実践的に学びました。鹿児島に赴任してすぐ、「健康運動指導士」の資格を取り、「健康運動指導士会」県支部を立ち上げ、初代の会長を担任したり、「NPO法人健康づくりフォーラム」を創設しました。それ以後も野球やマラソンをやりながら、医療生協の班会などで講演をしました。現在も、「ERGスポーツジム」に通って筋肉トレーニングや健康運動を続けています。
仕事面では、病理解剖を1,000例近く担当し,主治医だけでなく看護師、薬剤師、検査技師や事務も参加して「臨床病理検討会: Clinical Pathological Conference (CPC)」を鹿児島生協病院で311回、国分生協Hpで25回行いました。検討会を開始する時、まず患者さんの冥福とご家族への追悼、担当した主治医と看護師さんなど関係者への感謝を込めて黙祷しました。また毎年11月、慰霊祭を近隣の悠善社・谷山葬祭で開催しました。死因や病変を解明し、学びと感謝、反省と思いやり、そして”祈り“を期待したものでした。「CPC250回(1980~2004年)総括」では、剖検率:33→13%に低下,診断不一致率:38%→48%へ増加していました。印象的で貴重なものは、国分生協HpのY先生が受け持たれた患者さんで、「成人型T細胞ウイルスType-1(THLV-1)感染による脊髄障害(HAM)」と命名された世界初の解剖でした。
2000(平成12)年、疾患の第一研究者・出雲周二教授(鹿大医学部難治ウイルス病態制御研究センター)と中国の厦門(アモイ)大学へ出かけて、当地での調査やこの疾患に関するエピソードを発表しました。それは、ウイルス発見の20年前(1974:昭和49年)、私の南大島診療所時代に「リンパ性細網肉腫」と診断された症例を、上海の「中山医科大学」で発表し、これまでクローバー状の核を有する異形細胞を単球(monocyte)と見なしていたのを、異形リンパ球であると注意を喚起したこと、(以後、末梢血や骨髄穿刺標本を器械による自動分析をせず、私が顕鏡してきました)。そして、これがTHLV-1ウイルス感染によるリンパ腫で、感染している母親は授乳してはいけないことなどでした。
また、「癌登録システム」を鹿児島県で最初に取り組みました。癌と診断された患者さんを半年ごとに病状を問い合わせ、治療成績や地域での癌の頻度と傾向を調べるためです(現在継続中)。その後、細胞診断のレベル・アップには、民間の病院からも運営に参加することが大事だと思って「細胞学会鹿児島支部」の副支部長になりました。当時(昭和55年)、運営の中心は、消化器内科の故M・先生(追悼文集発行)、I先生や医師会病院検査・S技師と4人で、会員は10人前後でした。鹿大産婦人科は細胞診を実施していなくて、婦人科の役員は居ませんでしたが、国立がんセンターで学んでこられたD先生の協力を得て学習会などを行い、その後、市立病院のH先生も参加され活発になりました。
これ以来、私が退職するまで「鹿児島県民総合保健センター」の細胞診・二次検査を担当し、細胞検査師やスッタフと親しく交流したり、有所見(クラス3以上)の記録と写真を残してきました。また、「癌登録」で判明したことは、奄美大島や南西諸島で食道癌以外に肺癌(末梢腺癌)が多く、全国的に増加する傾向でした。このことを臨床細胞学会九州連合会(長崎・1994)でシンポジストとして発表しました。従って、肺野に異常所見のある場合は、胸部CT+肺穿刺細胞診を実施すべきことを、当時の保健センター所長に提案しました。全国的には、すでに名古屋と宮城県が行っていました。その後(今から9年前)、私の右肺に異常陰影が発見され、すぐに手術を希望しましたが、呼吸器科や外科では、”肺炎後の器質的変化”と見なされました。私は毎月、自ら喀痰細胞診をして1年後、肺飽上皮癌を発見し手術しました。幸い進行度II(T2、No、Mo)の早期癌で貴重な実体験でした。
以下、所属学会(病理学会と臨床細胞学会)で、細胞診中心の主な研究発表や論文を紹介します。
① アスベスト(石綿)による肺癌を伴った悪性中皮腫(英文):(日本病理学会誌,Vol,30,1980)
② 成人型T細胞ウイルスType-1(THLV-1)感染による脊髄障害の免疫組織学的分析(英文):(実験神経学会誌,Vol.52.No4,1993)
③ ケラチンとCEA染色の胆嚢癌診断における有用性(J.J.SC,Vol.22.1983)、肺癌(大細胞癌と腺癌)鑑別: (日臨細学会誌,1983)
④ 喀痰細胞診にて診断された気管支原発腺様嚢胞癌~筋上皮細胞の電顕学的,免疫組織化学的検討: ( 〃, 1987)
⑤ 腹水に出現した副腎原発悪性褐色細胞腫瘍の細胞像の検討: (日臨細学会誌1988)
⑥ 多発性結節性陰影を呈した肺原発好酸球性肉芽腫症の一例 : ( 〃, 1988)
⑦ 腺様嚢胞癌との鑑別が困難であった単層上皮型滑膜肉腫の一例 :(日本臨床細胞学会 1992)
⑧ 腹水に出現したと推測された胃原発顆粒球肉腫の細胞像の検討: ( 〃, 1993)
⑨ 肺癌をめぐって~特に抹消肺腺癌について~シンポジュウム ): (日本臨床細胞学会九州連合会雑誌 Vol.25 1994)
⑩ 膵腺房細胞腫の細胞像の検討 Solid and Cystic tumorとの比較 :(日本臨床細胞学会誌 1995)
⑪ 副腎癌 Li-Fraumeni症候群の癌抑制遺伝子P53発現の検討 :(日中分子病理学会 1996)
⑫ 細胞診総合スライドカンファレンス: (日本臨床細胞学会九州連合会雑誌 Vol.28 1997)
⑬ CPC250回総括と病理解剖467症例から~病理医からの警鐘 :(民医連医療 Vol.385 2004)
⑭ E-Bウイルス感染による劇症型肝炎でのキラーT細胞検出の意義~臨床解剖学的検討~(英文): (J.S.P Vol97 No1 2008)。
これまで予期しない不快なことに多く遭遇しました。私が未熟で至らない者だったためですが、しかし、「初心忘れず」お互いに助け合って成長する自覚と思いやり、寛容さが必要ではないかと痛感してきました。
阪大病理学教室の送別壮行会(難波の料亭)で、故岡野錦弥と故松本圭史教授から“鹿児島に帰ったら、しっかり仕事をして後世に名前を残すように頑張れ!”と激励されたことを、改めて思い出し、多くの方々に心から感謝申し上げます
~ 楽も苦も 時過ぎぬれば 跡もなし 世に残る名を ただ思うべし~ (「島津日新公いろは歌」 甲突河畔にて‘18.6.30)